Iさんが山吹色に澄み切った特上のどぶろくを、僕の杯に注ぎながら教えてくれた。
甘い香りを発したどぶろくが僕の身体に浸透していく。
杯を持つ僕の手には、日光で温められた柔らかい土のさらりとした感覚がまだ残っていた。
Iさんと福島県鮫川村で会った時、広葉樹の多い村の山々は赤や黄の衣装をまとい地面さえも七色に染め上げられているようだった。Iさんが米作りを熱心に行っていることを知ると僕は間髪を入れず、田植えを手伝わせて欲しいと申し入れ、Iさんは快諾してくれた。
春が訪れ、一路、鮫川村へ向かう。
村に入ると車窓を木々の緑が覆い尽くし、狭い車内はすぐに濃い緑で充満してはち切れそうだった。快晴で、窓から入り込む乾いた空気が心地よく、光がそこかしこに満ち溢れていた。日光で白く光る路上で日向ぼっこをしていたヤマカガシは、車の気配に気付くと音もなく草むらへ消えた。
狭い山道を登り、幾つかカーブをやり過ごすと、急に眼前が明るく開けた。
緩やかな勾配の斜面に水田が広がっていた。周囲を森に囲まれ、森に守られているようだった。蛙の鳴き声があたりにこだまし、その音は太くなったり細くなったりしながら、力強く迫ってくるようだった。
Iさんは腰に苗を入れる籠を結わき、おばあさんと一緒に作業に励んでいた。
僕は嬉しくて、大きな声でIさんを呼びながら車を飛び出す。沸き起こるむずがゆいような嬉しさと楽しさで、わけもなく跳びまわりたくて仕方がなかった。
「来なかったらどうしようと思って、本当に心配だったよ。」
つなぎを着て、長靴を履いたIさんが田んぼの真ん中から呼びかける。
早朝に出発したものの、思わぬ渋滞で到着が遅くなったことを詫びながら早速身支度をする。足まくりをして、手ぬぐいをキュッと頭に縛る。
本日の指導員は、Iさんの母方のおばあさん。
「土の上に軽く乗せるような感じで、板前さんがお寿司を出すように、トン、トンと」
Iさんのお母さんが昼食を運び、Iさんの息子二人は歓声を上げながら隣の池で魚を追い回している。お父さんが苗を軽トラで運んでくる。
少し戸惑いつつも、片足から田に足を入れる。足が柔らかい泥の中へもぐりこみ、奥は少しひんやりしつつも表面は温かい。適度な泥の圧力が肌を圧迫しつつ、足を動かすと意外にさらりとしている。特に泥の上部は手でつかめないほど柔らかくトロトロしている。
Iさんは僕と並んで入り「いい手つきだよ」と言いながら、ぐんぐん進んでいく。透き通る水面を見ると、泥の合間にひょろひょろと黒く細長く伸縮する生き物がいる。ヒルだろうか。そこへすーっとアメンボが来て、視界を横切っていく。僕は早く植えるのが惜しいような寂しいような思いで、ゆっくりと苗を泥に立てながら、嬉しさを幾度となくかみしめた。
Iさんとおばあさんは、前、左に二つ、右に二つと一歩進むごとに5苗を植える。
僕は前、左、右と3苗を植える。
田にはIさんがガジと呼ばれる巨大な櫛のような道具を使い、一面に等間隔の正方形が描かれているので、後はただ頂点に苗を置いていけばいい。この作業が大変だったろうに・・・。今日のために準備をしてくれたIさんの好意が有難くて仕方ない。
「ばあちゃん、ほんとうにはえぇーなあー」
Iさんが手を休めおばあさんの仕草に見とれている。僕も一緒になっておばあさんの動きを食い入るように見る。
動きに無駄がなく、僕の横にいたはずなのに、もう向こうの畦に近い。
田植えコンテストでも優勝経験があるおばあさんに、僕達はまるで歯が立たない。実はIさんも普段は田植え機を使うため、手植えは今日が初めてだと言う。
「いやぁ、手で植えると本当にうまい米が出来るんだよ。収量も多いし。子供達に食べさせる米は手間かかっても、農薬使わないでこうやって作るのが一番。」
おばあさんは僕達の手つきを褒めちぎりながら、動作は確実で尚速い。
この迫力は一体なんだろう?おばあさんの身体から田で蓄積した数十年の経験が周囲に発散しているようだった。僕はおばあさんを見ながら「歴史」を体感しているような気分になった。自然と尊敬の念が起こる。
「農家の人たちはお互い助け合って生きてる。田植えがあるときは、一家総出で手伝いにいく。それを順番に繰り返しながら。みんなに助けられていることを知ってるから、自分のことより、いつも他人のことを褒める。ばあちゃんはいつも誰かを褒めてる。結いの精神ってこんな風かもしれん。」
Iさんは飲みながらそんな話をしてくれた。
いつしか水田は、均等に正確に、等間隔で並ぶ苗で充満した。
子供達はズボンもパンツも脱ぎ捨て、かわいいお尻を緑にさらして泥の中を行ったり来たりしている。
お母さんが、
「田んぼは気持ちいいねー」
と言うと、
「田んぼは気持ちいいよー」
と無邪気に大きな声でかえす。僕もIさんもおばあさんもみんな笑っていた。
澄んだ透明な光の中で、木々の緑が日光に反射し、静かに輝いていた。
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